YOUR LOVE MY LOVE 上


 

 二月半ば、ここロンドンの春は、まだまだ遠い。
 こうも寒くては、息子と散歩に出る気にもならず、ここ数日は買い物もそこそこに家に籠もって過ごしていると、昨日の電話でマライヒは言っていた。
自分が帰らないのであれば、幼児と好き嫌いのない彼の食事など、家に常備してあるものを料理するだけで事足りるのだろう。マライヒがいそいそと食材を買い込んで嬉しそうにキッチンに立つのは、自分の為の料理をしている時、正確には肉ばかりを好む自分に何とか野菜を食べさせる工夫をしつつ献立を考える時なのだと、バンコランは知っている。
 
 あと一時間ばかりで日付が変わる。
明日は二月十四日。
マライヒの誕生日であり、世間では愛する人に贈り物をするバレンタインの日。
今年は偶然にもふと思いついたものがあったので、誕生日の贈り物を早めに用意しておいたのが不幸中の幸いであったと考えつつ、バンコランはデスクに前のめりになっていた体を椅子へ深く埋め、葉巻を手に取った。
もう、一日半ここに縛り付けられているのに、成功確率75パーセントの作戦の成否を知らせる電話は、未だかかってこない。
その一報さえあれば、一段落付くというのに。
 バンコランは、チェーンスモーキングが続いて、残り少なくなってしまった葉巻に火を付け、ため息の代わりに胸の奥へ吸い込んだ。
 
『プレゼント、おねだりしてもいい?』
 今と同じように煙を吸い込んでいた自分の腕に、華奢な指を絡めてマライヒが耳元で囁いたのは、確かクリスマスの頃。自分の誕生日を彼とフィガロに祝われてこそばゆい思いをした後だったと、バンコランは記憶している。
 何か欲しいものがあるのかと問うたバンコランに、愛しい少年は何とも欲のない、しかしいかにも彼らしい願いを口にした。その時には、そんなものは何でもない、必ずかなえてやるから別のものを考えろと請け負ったのに。現状ではそのささやかな望みを叶えてやれる可能性は、極めて薄い。
 
 デスクの上の、待てど暮らせど鳴らない電話を恨めしく見遣ってから、スーツの内ポケットにしまってある携帯電話を取り出す。好かないので、普段はその存在を意識にのぼらせることのほとんど無い、薄く得体の知れない機械が、今このときばかりは幾分頼もしい。
 
 きっとあの子は待っている。
 日付が変わるまでに、せめて後四十五分以内に吉報が届けば、自分は信号も制限速度も無視し、必要とあらば職業上の権限も最大限に行使して、出来る限りの早さで家へ戻るだろうとバンコランは思った。
しかし、派遣した部下が作戦を決行している国とここロンドンの時差を思えば、そして作戦の性質を考慮すれば、その可能性はかなり低い。だからといって、明日の朝には戻るからと帰ってしまうことも出来ない。作戦の成否で、次の指示は変わり、それを下せるのは自分しかいないのだ。連絡先を携帯電話や自宅にすることも、セキュリティの問題で出来ない。今の自分は、ここにいるしかない。
 ならば後は、
「現状においての最善を尽くすほかない、な」
葉巻に火を付けつつ、どうしようもない浮気癖以外は誠実な軍人であり父親であり伴侶である男は、そう独りごちた。
 
 
 仕事が忙しいことは聞いていた。
 混乱しそうな思考を整理するためなのか、彼にしては珍しく、今関わっている事件のあらましを詳しく語って聞かされもした。求められて自分の意見も言ったし、手伝えることはないかとも考えた。だから、何も言えない。
「仕方無い、よね」
今回ばかりは、浮気を疑う余地もないのだから。
 
 バンコランは、もう三日戻ってこない。いよいよ大詰めだ、今度こそ尻尾をつかんでやると息巻いて出かけていったきり、ごく短い電話は一度かかってきたが、着替えにすら帰ってこない。気を利かせた部下の一人が、マライヒの携帯電話に様子を伝えるメールを入れてきてくれたことから、本当に忙しくしていることは知れる。
けれど。
いや、だからこそ、わがままなど言えない。
 
 居間のローテーブルに置いたままの携帯は、もうすぐ日付が変わることを示してる。
十二時を過ぎれば、二月十四日。自分の誕生日がやってくる。十八歳、法的にも成人を認められる年齢。
 それなら、今までの自分は子供だったのかと考えると、何ともおかしく思える。
 だって、ぼくはもうずっと前に親の庇護を失って、法が許さない人殺しを幾つも重ねて大人として生きてきたし、信じられないことに今では子供を産んで親になってすらいるのに。今更、今日から立派な大人ですねおめでとう、と言われてもどうして良いか分からない。裁判で無罪を勝ち取ったとはいえ、そもそも法律は、自分の存在自体を許さないのではないだろうか。
 それに。
己の中に根強く残る幼さ。バンコランがそれを好ましく思っていることを感じつつも、マライヒ本人は快く思っていない。
 
『ちゃんとした大人になりたい』
 バンコランに出会ってから、共にあるようになってから、ずっと密かに願い続けていること。人殺しの子供ではない、死の天使ではない、一人の、ちゃんとした大人になりたい。「普通」を幼い頃に否応なく取り上げられた少年の、切なる願い。
バンコランの隣に並び立つにふさわしい人間に、なりたかった。
 
でも、ちゃんとしてるって、何?
具体的にどうすれば、立派な大人になれる?
誰かに聞いてみたいけれど、一体誰に聞けばいいのだろう。
そもそも、深夜のリビングでソファーに沈み込み、クッションを抱きしめてそんなことを考え込むことそれ自体、ちゃんとした大人ではない証拠なのかもしれない。
そこまで思い至り、ため息をついて思案を追い払おうとしたその時、テーブルに置いたままになっていた携帯電話がヴヴヴと震えだした。こんな時間にメールが? とディスプレイを見たマライヒの目に、登録はしていないけれどしっかりと暗記してる番号からの着信の知らせが飛び込んだ。
 
「もしもしっ!?」
 慌てて薄っぺらな機械を手に取り電話に出ると、
「・・・! 声が大きいな」
と、マライヒの勢いに驚いたのか、バンコランが一瞬声を詰まらせ苦笑混じりの言葉を返す。
「・・・え?」
「フィガロを起こしてはいかんとわざわざこっちに掛けたのに、そんな大きな声を出すな」
「ああ、そうか。・・・ごめんなさい」
 だって、びっくりしたから。
そう続けようとした言葉を、マライヒは飲み込んだ。
「・・・・・・おめでとう」
「え」
「お前が欲しいといったプレゼントだ。日付が変わって一番最初にわたしから聞きたいと言っただろう」
 
 確かに言った。昨年末、彼のバースデーの後に、ベッドで。
 あの時は世間も割と平和で、まさか二ヶ月後にこんな忙しさを味わうことになるとは思っていなかっただろうバンコランは、二つ返事で請け負ってくれた。
『日付が変わってぼくの誕生日になったら、一番最初の祝福の言葉はあなたから聞きたい。他の誰でもないあなたから。他には何も要らないから、ぎゅうって抱きしめて、耳元で囁いて』
 
「・・・覚えててくれたんだね」
「ああ。誕生日、おめでとう」
「・・・うん、ありがとう」
 こうして電話をして来たということは、まだ事件のカタは付いていないのだろう。そして嫌っている携帯電話からの発信ということは、本部の電話は使えない状態、何らかの連絡を待っている最中だということで。
もし今彼のデスクに乗っている電話が鳴ったり、部屋のドアがノックされれば、この通話はすぐさま切られてしまうだろう。
そんな緊迫した仕事の最中に、本来仕事とプライベートなら仕事を優先するはずのバンコランが、完全ではないながらも約束を守ろうと電話を掛けて来てくれた事がとてつもなく嬉しくて、マライヒはいまここに彼がいないのをいいことに涙をこぼした。
大丈夫。声を涙に滲ませなければ、彼には知れない。
「すごく、うれしい」
「・・・まだ、帰れん」
「うん、分かってる。大丈夫。・・・ねえ、もう少し話しても良い? 切らなきゃいけないときにはちゃんと切るから」
「・・・ああ」
 
 この子はどうして、ささやかな願いをこうも重大なことのように言うのだろう。
 わたしがそれを、断るとでも思っているのだろうか。
 わたしはそれほど、信用がないのか。
 腕に絡む華奢で力強い指や肩に触れる亜麻色の巻き毛、頬や首筋にかかる花の香りの吐息を伴わない、声だけの会話が物足りない。そう思う程長く、自分に近い場所に居続ける少年の不思議をバンコランは思った。
そしてすぐに答えは出る。
この子が何より求めているのは、心だからだ。高価なアクセサリーも、耳にこころよい愛の言葉も喜ぶが、この子が何より欲しがっているものは、わたしの心なのだ。もう随分前からわたしの心にしっかりと住み着いているくせに、この子はそれを知らないでいる。
 
「ねえ、昔って何してたか覚えてる?どんな気持ちだったか思い出せる?」
「昔、とは?」
「ずうっと、ずうっと前のこと。どこにいて誰を愛していたか、記憶にある?」
 
 ずうっと、ずうっと前。
 具体性のない言葉に、バンコランは上手く返事を見つけられない。マライヒが抽象的な事を問うてくるのは珍しいなと思いつつ、燃え尽きてしまいそうな葉巻をもみ消し、新しいものを引き寄せ火を付けた。
 電話越しの吐息が深くなったことで、マライヒにもそれが伝わった。長い間、心に刻みつけ続けている、バンコランの一挙手一投足。葉巻を立て続けに深く吸い込んだであろう事が、電話越しでも十二分に分かる。
そう。
もうずっと、ぼくらは隣り合い支え合い共にある。
そしてきっと、愛し合っている。
 
困らせてしまったかな。
こんな疲れているだろう時に、悪かったな。
「ごめんなさい」
 おかしな事を聞いて。
 言外にその思いを込めて、お仕事頑張ってね、愛してるよと続けようとした矢先、受話器の奥でベルが鳴った。
かつて毎日耳にした音。
本部の、彼のデスクにある電話が鳴ったのだ。
「切るぞ」
 バンコランの声がほんの少し固くなり、ぷつりと通話が切れた。あの電話は、彼に吉報をもたらすだろうか。彼を家へ、自分の側へ、戻してくれるだろうか。
 
「バンコラン・・・愛してる」
 届かないことを知りながら、マライヒは携帯電話に囁いた。
 
 
 

 

 

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